2014年12月31日水曜日

2014年

2014年。

たくさんの方にお世話になりました。

本当にありがとうございました。

2014年12月26日金曜日

サンタが街にやってくる

12月中頃のお話。

クリスマスソングが鳴り響くコンビニでおでんを物色していたら、1本の電話がありました。

2014年12月25日木曜日

やるのだ

先日、今年最後の蚕神社の掃除を行いました。
竹をゴイゴイ伐採。


2014年12月23日火曜日

文字通りの師走

【繭マスク】のご注文、いつもありがとうございます。

毎日いただくご注文や使い心地の感想などの嬉しいお言葉を励みに、
古閑先生と共に毎日頑張って製作しております。

2014年12月9日火曜日

分け合う


橡(つるばみ)
どんぐりの方ではなく、帽子(かさ)の方を使って染色をしました。

2014年12月6日土曜日

お色直し

ちまちまと収集した座繰り機。
雨風にさらされて腐食していたり、歯車が欠けていたりしているものは、パーツを入れ替えたり修理したり。
まだまだ立派に糸を紡げます。

歯車はいつも見とれる。かっこいい。ゾクゾクする。友人に話してもいつも白い目で見られるけど。
はぁ~かっこいい。

2014年12月4日木曜日

蚕神社の大掃除

蚕神社の大掃除を行いました。
凍てつく寒さもなんのその。
農家の女性3人が集まれば、雨音さえも笑い声に変わります。

蚕神社には蚕の神様といわれる、島己兮(しまいけい)さんのお墓があります。


島己兮(しまいけい)
「かいこの神様」といわれ、肥後の養蚕業の普及発達に貢献した志賀氏の墳墓である。志賀氏は、名は親民半右衛門と号し、隠居して、島己兮と改めた。下米野の住んで、養蚕機織をしていたのを堀勝名に見出されて藩公の命をうけて、宝暦11年(1761)12月から翌年6月まで京都を中心に機械業先進地をめぐって、技を磨き帰国後、養蚕並びに織絹方主任を仰せられて、広く肥後各地を巡回して、その指導にあたり非常に大きな功績があり藩よりもたびたび褒賞を受けた。寛政8年(1796)12月2日、75才で歿した。(山鹿HPより)

境内も綺麗に磨いた後、各々
『今年も立派な繭をつくってくれた事、無事に育蚕を終えれたこと』、感謝の気持ちをお伝えしました。

現在、山鹿で現役の先輩農家さんは2軒。
何十年もの間、蚕神社を守り続け、感謝の気持ちをお伝えし、養蚕を続けてこられました。

『昔はここの掃除も何十人でやりよってねぇ、賑やかやったとよー。』
『あんたんとこのお父さん(旦那さん)は石ころまで綺麗に掃わいて家に持って帰りよったもんなぁ。』
『あんたんとこのお父さん(旦那さん)も、たいそうな掃除道具抱えて朝一番に来よりましたもんなぁ。』

懐かしい昔話に花を咲かせながら境内でお茶を啜ること1時間。

身体は冷えるどころか、3人共に熱くなっていました。

誰がいつ言い出してそうなったか分かりませんが、

『蚕神社の周りを頑張って整備して、美しい場所にしよう』 と、いうスペクタクル(←3人にとっては)
な話題で熱を帯びていました。

人手が少なくなって久しく。
これまでもずっと掃除をしながら大切に守られてきましたが、どうしても手が届かない場所が出てくるのも現実。
木々は大きく成長し、植栽は蔓(かずら)に閉じ込められ、道路から境内は眺めません。
昔駐車場だった場所は、竹が成長し入れなくなっています。

そして、誰からともなく掃除が再開。

最初は自分達の話をしていました。
『ここが綺麗になったら、来年の春はココに座って花見をしよう・・』
『来年の総会はココに座ってしよう・・』
『総会の後は、こっちに座ってお弁当しよう・・』
などなど。

でも、掃除が進むうちに、
『神さんも、昔みたいに色んな人が来て賑やかになったら嬉しいだろうね・・』
『通りすがりの人達にも、この場所を気づいてほしかね・・』
『こっちは通りすがりの人が休憩できる場所になればよかね・・』
などなど、そんな会話になっていきました。

きっとそうなる!

今回の清掃プロジェクトの部長。
理由は、昔造園屋さんで働いていたから。
先輩農家さん達の足腰は、驚くほど強い。
ちなみに3人の総括名称は、『養蚕婦人部』。
見てのとおり。

数年ぶりに蔓(かずら)から解放されたつつじ。
来春の開花には間に合いませんでしたが、再来年春綺麗な花を咲かせる事でしょう。

大事な大事なお身体なので無理しないように少しづつ進んでいきたいと思います。

次回集合は、3人共畑仕事がなくて、パートがなくて、天気の良い晴れた日!


『3人でやると楽しかね。なんでもできる気がするばい。家の畑仕事もこれくらい出来れば良かとやけどねー、ガハハー。』 と、先輩のお言葉。

本当にその通り。
そして、とっても嬉しいお言葉。